【 嘉母神社祭礼 】
西条祭りのスタートとなる嘉母神社の祭礼は、体育の日の前々日と前日に行われ、
禎瑞地区の氏子により子供太鼓台が奉納される。
禎瑞地区は、1782年( 天明2年 )、西条藩の干拓事業によってできた田園地帯で、
この時、地元の氏神として嘉母神社も同時に創建された。
神幸祭が行われるようになったのは1933年( 昭和8年 )のことである。
1975年( 昭和50年 )頃、父兄による手作りの子供太鼓台が、
神幸行列に参加するようになった。
当初は発泡スチロールなどを使ったものであったが、
順次、金糸刺繍による本格的なものが作られた。
現在では地域の祭として定着し、賑わいを見せている。
【 石岡神社祭礼 】
石岡神社の祭礼は、氷見・橘地域の氏子により、10月14・15日に行われる。
伊曽乃神社よりも早く祭礼にだんじりが登場し奉納されたという伝承があり、
曰く「( 約250〜300年前に )石岡八幡宮( 石岡神社 )の、
別当寺である吉祥寺の住職が、河内国の誉田八幡宮にて、
当時奉納されていた祭礼山車( 藤花車または地車の類と思われる )を見て、
当時地元の祭礼には奉納する山車の類がなかったため、
住職が記憶をたよりにこれを模した屋台を竹でこしらえて奉納した。
そしてこの屋台こそが石岡神社祭礼での最初の奉納屋台、
寺の下だんじりであった。」とあり、
これが「 だんじり祭り 」としての西条祭りの発祥になったとされている。
( これには諸説存在するが、現在はこれが最も有力な説として支持されている。)
このため、西条祭り発祥の地として各氏子のプライドも非常に高く、
激しく荒々しい練りや複数の数の屋台での見事な差し上げなどを得意とし、
伊曽乃の祭礼とくらべ規模こそ小さいが、
それを補って余りある魅力と勇ましさを誇る。
また、この地方は近年の都市化の開発の影響を受けることが、
ほとんどないことが幸いして、おもに西条市の中心市街で繰り広げられる、
伊曽乃神社の祭礼でほとんど見ることができなくなってしまった、
古風でおもむき深い素朴な時代の西条祭りの姿が現在も守りつづけられている。
また複数のだんじりと御輿が、御神輿とともに一斉同時にかきくらべをする光景は、
現在この石岡神社の祭礼だけでしか見ることができない、
独特の光景であり石岡神社祭礼の最大の見せ場となっている。
田園地域ゆえの素朴な土地柄と西条だんじり特有の華麗さが、
非常に高い融合を果たしており、伊曽乃祭礼の豪華な華やかさとは、
また違った見ごたえと味わいに満ちて非常に美しく、
現代にありながら古き時代の人間味あふれたあたたかさを感じることができる、
「 郷土の祭り 」である。
【 伊曽乃神社祭礼 】
伊曽乃神社の祭礼は、江戸時代の昔より260年以上の伝統をもつ、
歴史の長いものであり、歴代の西条藩主も保護奨励したと伝えられている。
これについては地元に伝わる逸話があり、
「 江戸時代に、仙台藩の伊達公が江戸城内にて領地の祭り自慢をしている折、
それを聞いていた西条藩の松平公いわく、
「 そのような祭りより当地の祭りは更に素晴らしいものであるぞ。」と語り、
後日、絵師に描かせた祭り絵巻を伊達公に贈らせた。」というもの。
そのとき伊達家に贈られた「 伊曽乃大社祭禮略図 」
( 西条市指定歴史資料第74号 )は、1950年( 昭和25年 )、
伊達家の好意により伊曾乃神社へと寄贈され、現在は社宝として所蔵されている。
また別の資料として「 伊曽乃大社祭礼略図 」より更に古い時代の、
「 伊曽乃祭礼細見図 」が近年、東京国立博物館で発見されており、
当時の祭礼の様子が、楽車の彫刻の細部にいたるまで、
緻密かつ克明な描写で描かれている。
これらの資料により、狂言屋台やからくり人形の屋台など、
現在では伝えられていない屋台の存在も窺い知ることができた。
現在では、一社の祭礼で奉納される台数としては、
全国でも最多の80台を超える美しい屋台が勢ぞろいし、
10月15・16日の昼夜に渡って、
勇ましくも優美な元禄時代絵巻さながらの美しい祭礼模様を繰り広げる。
【 飯積神社祭礼 】
西条市東部と新居浜市大生院地区を氏子とする飯積神社の祭礼では、
新居浜市と同様の太鼓台が奉納される。
奉納台数あわせて11台と、近隣の祭りと比べてけっして派手なものではないが、
氏子の気合は非常に高く、ともすれば新居浜祭りを圧倒しかねないほどの、
激しく勇ましいかきくらべが奉納期間中、地域の随所で行われる。
近年太鼓台をつかった危険な喧嘩の絶えない新居浜祭りとくらべて、
純粋な太鼓台のかきくらべを間近で見られることから、
飯積神社祭礼のファンも多い。
【 西条祭りと西条市民 】
毎年、夏休みの後半辺りから子供等の練習する鐘や太鼓の音が、
あちこちで聞かれるようになり、根っからの祭り好きな地元っ子は、
この時期になると鐘・太鼓の耳鳴りがするとすら言われている。
また故郷を離れ遠方に移り住んだ者に至っては、
冠婚葬祭・盆や正月にすら帰郷しない者でも、
年一度の祭りにだけは万難を排してかならず帰郷する。
この土地柄ゆえ「 一年は祭りに始まり、祭りに終わる 」という、
古くからの気質が地元人の中に定着しており、これを最も象徴するものに、
暦が10月から始まる「 西条祭りカレンダー 」があり、
主に市内で毎年販売されている。
当然、祭り当日は学校、会社、商店、工場、一部官公庁までもが、
地方祭休日となる所がほとんどで、開いているのは、
コンビニと救急消防医療関係程度で飲食店の多くも閉まってしまう。
そのため観光客用に「 祭り当日でも営業している商店マップ 」が、
配布されるほどである。
西条市民には「 祭りがやりたいから西条に残った。」、と公言する者も多く、
冗談のような話だが、地方祭休日があるかどうかで就職を決めたり、
他所に出ていても祭りがやりたいがために仕事を捨てて、
西条に帰ってくる者すら多く存在する。
また、地元人の間では古くから現在に至るまで、
祭りを神事として捉える意識が特に強く、
近年の新居浜太鼓祭りにみられるようなイベント化・観光化、
祭りの土日開催への移行に対する嫌悪感・抵抗感が根強い。
昭和50年代以降 全国各地の祭りや行事にも、
西条のだんじりが参加する機会が多くなったが、
特に伊勢神宮への奉納には格別な意識を持っているところに、
「 神事としての祭り 」を尊ぶ祭り人としての気質が如実に現れている。
( 伊勢奉納のきっかけは、伊予のお伊勢さんと称される伊曾乃神社と、
西条祭りで唄われる伊勢音頭である。)
伊勢神宮や伊勢市へは、現在までに遷宮や御鎮座二千年の奉賛、
宇治橋の架け替えなどで、小規模納なものではだんじり1台から、
大規模になるとだんじり、みこし、太鼓台合わせて30台以上で、
回数にして10度以上に渡って遠路奉納しているが、
2006年( 平成16年 )11月4日には、62回遷宮の御木曳を記念して、
過去最大となる32台ものだんじりと、1600人の舁き夫が三重県伊勢を訪れた。
このような伊勢神宮への奉納はもちろん、例年の祭礼においても、
祭礼の運営費・屋台の維持管理費用などに行政の援助は一切受けず、
すべてお花や自治会費をはじめとする市民の寄付で賄っているのも、
西条祭りを愛する市民の誇りとなっている。
こういった各種事柄や祭り装束もあって、
西条市では「 蝋燭の一人当たり使用量 」が群を抜いて高かったり、
「 地下足袋のコハゼを入れるのが早く上手 」であったり、
小さい子供からご老人までが伊勢音頭を始めとする祭り唄を諳んじたり、
和太鼓が得意であったりする。
ウィキペディアの執筆者,2012,「西条祭り」『ウィキペディア日本語版』,(2012年9月18日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E7%A5%AD%E3%82%8A&oldid=44076902 ).